
キリスト、ユダヤ、イスラム教の聖地であるエルサレムには巡礼者が絶えません。

十字架の道を行く人々。

イエスのお墓にくちづけするクリスチャン。

信仰あるその姿が、ぼくには大きなパフォーマンスに見えてしまう。
旅先で自分の宗教を尋ねられることがありました。
なんて答えれば良いのか、分からず無宗教と答えていました。
確かにそう答えておけば、無駄に突っ込まれることはないと思いました。
そして、それは単なる無関心でした。
大学に入ってからキリスト教について聖書を読んだり、それについて解釈をしたりという機会を持ちました。
半ば強制的で、その半端な接し方が、キリスト教をぼくの中で何か物語的なものとしか捉えられなくなりました。
その半端さは自分の宗教についても、その曖昧さを加速させました。
そしてイスラエルを訪れる。
宗教が交わる土地で、自分の考えも整理してみることにしました。
全ての宗教並列させ客観的に照らし合わせることです。
そうすると、自分の中にもほとんどの日本人にとってありきたりなものが眠っていました。
きっと神道や仏教の考え方が1番しっくりくる。
一日数回のお祈りや、週に一度の教会など生活の中には目立って出てはこないけど、いざという時それは横にある。
このような考え方に納得がいきました。
この納得こそが宗教を考える上でもっとも重要なことでした。
その宗教に納得できるか、いや納得したからこそ皆自分の宗教を信仰しているものだと思います。
そしてぼくはまだスタート地点。
自分の宗教についてほとんど無知だと言ってもいいでしょう。
今は寺や神社、日本の伝統的な行事など興味が湧いて、きっと帰国したからは自分の宗教も意識しながらこれらを見て行くことができるでしょう。
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